東大女子の戯言

仕事、子育て、婚活、副業、思ったことを徒然と。

ADHDの人生を振り返ってみる。果たして理想の仕事はあるのだろうか。

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諸々の忙しい時期は去って、時間に余裕が出てきた。

ふと思い立ったので、これまでの人生を簡単に振り返ってみることとする。

 

1.ADHD傾向に気付いたとき

 

わたしがADHD傾向があると気付いたのは10年前の頃。気持ちが落ち込んで心療内科にかかったとき、発達障害の疑いありと言われたのがキッカケである。


まだ当時はアスペルガーもADHDも今ほど有名ではなかったので、その診断を受けて初めて発達障害というものを知った。


心療内科では「疑いあり」と言われただけで、その後に詳細な診断はしていない。

自分で分析する限りには、メインはADHDであり、ASD傾向も少々といったところで、
いずれも、社会生活を全く行えないほど重症ではないと思っている。

 

2.忘れ物の多い子ども時代

 

これまでの努力の甲斐あって、今は幸いにも平和に日々を過ごしているが、
幼少期は “風変わり” “大人しい” “ぼんやりしている” “おっちょこちょい” と評される子どもだった。

遅刻や忘れ物はいつものことだったし、机の中にはプリントがグシャグシャになって入っていた。

 

夏休みに入る前に「少しずつ物を持ち帰る」という計画を立てられず、最終日に一気に持ち合えろうとして袋がビリビリに破れて途方に暮れた。


あのとき、結局どうしたのだろう。助けを求めるのも苦手な子どもだったので、半泣きで袋を抑えながら帰宅したのかもしれない。

 

当然のことながら、夏休みの宿題も計画的に進めることなどできず、最終日もしくは夏休みが明けてから、一気に30日分の日記を書くような始末だった。

 

それでも小学校時代は優しい友人に恵まれて、楽しく過ごすことができた。

 

3.友達の少ない学生時代

 

周囲に乗せられて都内有数の進学校を受験することとなった。特に苦労した記憶はないが、周囲の熱気に後押しされて合格したようだ。

 

思い返すと、中学校時代は友人作りに苦労した。複数人の友達との会話は苦手で、なかなか気の合う友人はできなかった。


自然と、同じくコミュ障気味の友人と2人で過ごすことが多かった。


「楽しくて一緒にいる」というよりも、お互いに「他に相手がいないので一緒にいる」というのが実態だった。


そんなわけで中学校時代は楽しいという思い出がない。修学旅行も苦痛だったし、体育大会も苦痛だった。

 

4.楽しくなってきた学生生活

 

中高一貫校だったので、高校の友人は中学からの持ち上がりだった。


それでも、「高校に入ったのだから心機一転がんばろう!」と思ったおかげか、クラス替えに恵まれたおかげか、コミュ力が上がったおかげか、楽しく馬鹿話ができる友人ができた。それからは学校生活は楽しかった。

 

友人にも影響を受けて、受験勉強にも力が入った。


みんなが医学部や東大を受験する状況だったので、特に何も考えてはいないが志望校は東大になった。


東大は受験の段階で学部を絞らなくて良い、というのも良かった。

 

受験勉強はやることがハッキリしているし、ゴールもハッキリしている。短期集中型の私はゲームをクリアする気持ちで挑むことができる。


高校3年生の春においてF判定だか何だかだった私は、受験直前にはB判定まで上がり、なんとか東大にも合格することができた。

 

天才肌ではないので、かなり努力はしたと思う。頑張ったのは1年ぽっきりだけど。

 

5.幸せ絶頂の大学生活

 

大学生活は自分のコミュ力の低さに落ち込むことも多々あれど、自分と同じような発達障害の傾向がある友人も多くて居心地が良かった。


男女比が8:2ということもあり、東大では女子というだけでチヤホヤされた。
(他大女子の入るインカレサークルでは、そうもいかないが)

 

大学生活は総じて幸せだったし、自分には無限の可能性があるように感じた。落ち込むこともあれど、一方で未来への屈託のない期待感があった。

 

就活は苦労することはないだろうとタカをくくっていたら見事に撃沈した。

 

「東大生」「人当たりが良い」「女性」というキーワードでウケが良かったのは公的機関。


公的金融機関や、省庁は苦労することなく内定が貰えて ほっと安心した。

 

今も昔も世間知らずで、助言をしてくれる大人も周りにおらず、就活を甘く見ていたと思う。


ちなみに類は友を呼ぶとは良く言ったもので、周囲にいた友人も皆ほんわかタイプ。みな就活に苦労していた。

 

6.省庁の仕事は「退屈」だった

 

さほど選ぶ余地もなく省庁に進むこととなったのだが、残念なことに仕事がつまらなかった。


国会議員対応ということで、特に仕事はなくても常にスタンバイしていなくてはいけない。昼休みであっても外出してはいけないとのこと。夜も20時に帰社できれば早いほうだった。

 

しかし、実際にやる仕事はない・・・。

 

何もすることがない状態で拘束されているのは、耐えがたいほどの苦痛である。

 

たまに来る仕事も、国会用の資料を25部ほど印刷し、すべての資料に分かりやすくタブをつける、といった事務仕事だったり、どこの部署にも帰属しないポッと出の依頼業務を「〇〇の理由で、当部で対応することはできない」と打ち返すといった、なんとも中身のない仕事ばかりだった。

 

新人のうちは仕事内容がつまらないのも仕方がないが、業務の効率の悪さや不合理さについて先輩社員に語ったところ、「まぁ、それが公務員だからね」と返されてしまって、「なんだかなぁ」と思ってしまったのだった。

 

東大と同じく、発達障害と思しき人も多いので、居心地自体は悪くない職場ではあった。しかし学生気分を引きずっている私は、「まだ自分には可能性がある!」と思って勢いで退職したのだった。

 

7.公務員から民間企業への転職

 

そして民間企業へと転職!

 

選んでしまった職種柄、そこには発達障害ぽい人は少なかった。


私はADHD特性(ミスが多い、忘れ物が多い)により、仕事ができない奴として認定された。


時代も不景気となり、入社5年以内で事実上リストラされる先輩社員も多発。民間企業の厳しさを肌身で感じることとなった。

 

まぁ民間企業のなかでも特殊な業界だったのかもしれないが。

 

そしてまた公的機関に出戻りすることに・・・。

 

8.居心地の良さか、やりがいか

 

いま所属している組織は居心地が良い。


霞が関よりもずっと柔軟で風通しが良く、業務の効率の悪さや不合理さは感じない。

 

安心できる環境だからか、私のADHD特性も成りを潜めている。

 

幸いなことに周囲にも「仕事ができる」認定をしてもらっており、この上なく良い環境だと思う。

 

7.ADHDの理想の仕事って何だろう

 

それでも、どうしても理想を追い求めがちな性格のため、「もっと面白い仕事はないだろうか」と想像してしまうことも多い。


もっと創造性のある仕事、あるいは刺激のある仕事がしたい。もしくは人の役に立てるような仕事。

 

しかし現実問題として、ADHD特性とASD傾向のある人が活躍できるフィールドなんてあるんだろうか?

 

そんな自問自答しながら、ADHDと理想の仕事についての思考を巡らすのであった。